先週だったかライブに行きました。渋谷のAXです。「神聖かまってちゃん」というバンド。実際には元スーパーカーのヒトや川本真琴さんとの対バンだったのですが、かまってちゃん入れ込み加減の自分としては「はよ終われ」みたいに思って2時間程を過ごしました。ごめんなさいピンポンのサントラとかも買ってたしまこっちゃんも岡村靖幸つながりで嫌いじゃないんだが、今はかまってちゃんしか見えないのです。
んでようやくメンバー登場!今日はニコニコ動画の公式生放送が入っているらしく後ろにスクリーンが下りて来て、観ている人のコメントが流れてくる。なんてうか強烈に「今っ」感がありますねこういうの。いやいや盛り上がります。俺なんてひとりなのに結構最前でもみくちゃになってたもの。
曲数も10曲程度で「ぺんてる」とか聴きたいのもやんなかったりしたし、また行かざるを得ない感じですね。「イカれたNeet」は盛り上がりました。日本人なのに「Born in the U.S.A」で盛り上がってるのと同じ感じというか。「お前二ートじゃねえだろ」っていう。
歌ってること基本的にネガティブなんですかまってちゃんって。「死にたいなあ」とか「死ねー」とか「学校に行きたくない」とか。そういうネガティブな事だって歌っちゃえば誰かに響いて、誰かが救われて、誰かの生きる力になったりするのです。
多分そういいうのが音楽の、ロックンロールのマジックなんだって思うのです。
2010年9月28日火曜日
2010年5月19日水曜日
現代において出家とは
お釈迦さまはネパールの王家に産まれたわけだけど、この世の中が苦悩に満ち溢れているのは何故なのか?という疑問に取りつかれて家を飛び出した訳です。詳しくは手塚治虫の「ブッダ」か「聖☆おにいさん」でも読んで下さい。
出家というのはそのブッダの故事に自らをなぞらえて剃髪して僧衣を着るというのも今まで身を置いていた世間の価値観から離れて生きるという決意のあらわれなんだろうと思う訳です。
けっしてお坊さんのカッコしたからって出家したとは言えないと思うのですよ。家から出てもさ、さらに権威主義的でガチガチなヒエラルキーに基づいた宗派に属したら、「出家」とは言えんのではないか?と。一概にはもちろん言えませんがね。
僧侶にケンカを売りたいわけではもちろんなくて、では何を言いたいかというと、現代で出家に近いのは、既成の価値観にとらわれないで生きる、っていう選択をした人々ではないか?と。
アーティストとかさ、バッグパッカーとかそういう人たち。現代においてのお寺はコミュニティにおいていろんな活動とか価値観を持った人たちを繋ぎあわせる役目を担うカフェとか、業態はともかく、そういうサロン的な場が「お寺」の役割を果たすのではないかな?と思うのですけど。
んで現代においての経文というか琵琶法師語りはこれ。向井秀徳「自問自答」これすごいです。かっこいいです。
2010年5月9日日曜日
アウトプット
特別に人よりひいでた技術を持ってるわけでなし、とくに自慢できる何かを持ってるわけでなし、とくにルックスが人目を惹くわけでなし、東京は好きだけど、都会には憧れるけど、雑踏に紛れ込んだら多分埋没してそのまま沈み込んでいってしまいそう。
卑下してるわけでなく僕は僕の生をキチッと楽しんで生きているし、春はどうやら過ぎ去ったようでこれから梅雨に向かう初夏の陽射しと風、庭に咲く花や僕の町を囲む山々の緑、家族達の成長や笑顔、そういったものをギフトとして享受しながら日々を暮らしている。
世界は、僕の住む国は騒がしいけど(騒がしくないことなんてあったのか?)、そんな色んなことをちゃんと自分の中で捉えていきつつ、足はちゃんと地面に付けて、スピリットの声を聴くことを忘れず、心穏やかに、時にオカシなことを考えつつ生きて行きます。幸せです。
2010年3月10日水曜日
DOMMUNE
昨日は仕事で夜勤で空いた時間にパソコンで遊んでた。
ツイッターをぼーっと眺めてたんだけどそのうちUstream(よく知りませんが動画の配信システムと思う)に関するつぶやきが多くなってきてそれが気になってリンクに飛んでみた。
なんだかDJが曲をかけているのをライブ中継している模様で、またその中継に関するコメントがどんどん更新されている。
「うわコレやばい」と思いました。
ツイッターでひとつの話題をみんなで共有するとか、たとえば「ラピュタ」をテレビでやってる時みんなおんなじタイミングで「バルス」って言うとかあるんです。あ俺ラピュタ観た事ないんですけど。
パソコン上の動画もユーチューブに始まりニコニコとかパンドラとかいっぱいあって、観たい番組見逃しても探せばあるし、エロいのもグロいのもいろいろあるんでしょ?知らんけど(嘘エロいのは知ってます)。
クラブカルチャーなんて全然詳しくないけどさ、まあ音楽かけてさ、踊りたいやつは踊っていて。黙って酒飲みたいやつは酒飲んで。女の子や男の子口説きたいやつはそうしていて、みたいな。そういう場ですよね。
でそういう空気がパソコンのディスプレイにちゃんと再現されていて。DJプレイの最後の2曲くらいしか聴けなかったんだけど楽しいしカッコいいしスリリングだなあと思って。「酒持ってこい」みたいになってさ。
これ酒飲みながら音楽聴いてさツイッターしてたらこら楽しいなと思うんだ。と思っていたら平日は連夜やってるらしいじゃないか?クラブばりに毎日違うジャンルで。まったくね凄い時代になったものです。
よかったらチェックしてみて下さい。
http://www.dommune.com/
ではまた!
2010年3月5日金曜日
クオリア
相変わらずTwitterにハマってます。それでなんか僕のつぶやきに反応して「awareness」ってことを言ってくれた人がいて、もちろんそんな言葉知らないわけで、調べてみたらザックリ言って「気づいている」って事みたいです。
ウィキペディアってバカみたいに便利だな。
んで、そこのリンクに「クオリア」ってあって、これまた当然知らないけど気になって見てみてぶっ飛びました。なぜなら自分が興味持って考えていたことにちゃんと名前があることを知ったから。
外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えそれを脳に伝達する。すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。たとえばある波長の光(視覚刺激)を目を通じて受け取ったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。
簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである
こういうもの達のことを「クオリア」というそうです。
んで赤いものをみて赤いって感じることのメカニズムはまだ分かってないらしい。いや、そういうことじゃないのか?よく分かんないんだが、面白いなあ。詳しい人いたら教えてほしいわ。
あと似たような概念に「共感覚」というのがあってこれはある音を聞くとある色が浮かんだり、みたいなことらしい。ある匂いかぐと記憶が蘇ったりもそうではないかな?
最近140文字以内の言いっぱなしばっかで長い文章は息切れするし、オチもつけられないんで申し訳ない。こういうものに興味があります、って事でした。
ウィキペディアってバカみたいに便利だな。
んで、そこのリンクに「クオリア」ってあって、これまた当然知らないけど気になって見てみてぶっ飛びました。なぜなら自分が興味持って考えていたことにちゃんと名前があることを知ったから。
外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えそれを脳に伝達する。すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。たとえばある波長の光(視覚刺激)を目を通じて受け取ったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。
簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである
こういうもの達のことを「クオリア」というそうです。
んで赤いものをみて赤いって感じることのメカニズムはまだ分かってないらしい。いや、そういうことじゃないのか?よく分かんないんだが、面白いなあ。詳しい人いたら教えてほしいわ。
あと似たような概念に「共感覚」というのがあってこれはある音を聞くとある色が浮かんだり、みたいなことらしい。ある匂いかぐと記憶が蘇ったりもそうではないかな?
最近140文字以内の言いっぱなしばっかで長い文章は息切れするし、オチもつけられないんで申し訳ない。こういうものに興味があります、って事でした。
2010年3月3日水曜日
Beautiful Losers
バンクーバーオリンピックが終わりましたね。
と、言いながらほとんど観ていないのですが。
なに観たかなあ。真央ちゃんのフリーは観たなあ。仕事中だったけど。
演技後キムヨナに負けたのが分かったのかちょっとミスがあったからか、すっごい憮然とした表情が印象的でした。
むかしスキーのジャンプで失敗して「いや~やっちゃいました~」みたいな感じで、よく覚えていないけど批判を浴びていた選手がいたような。
俺なんか勝とうが負けようがその人が精いっぱいやった結果で、その結果はその人のものじゃないかと思うのですが、オリンピックとなるとナショナリズム的な高揚もあるので、今回の国母選手じゃないけど、やたら騒がれて大変ですね。
なんだか格差社会だとかさ、勝ち組とか、非モテとか、イケメンとか、リア充とか、女子力を上げる、とか物事を二分化してさ、こっちに入ればはい一丁上がり!もうオッケーみたいな風潮を感じてしまうのだけれど。
そんな訳ねえんだよ。「祇園精舎の鐘の声盛者必衰のことわりをあらわす」だよ。「ひとえに風の前の塵に同じ」だよ。アンチエイジングとか言ってさ、やたら年取るのを怖がっていたって年はやっぱとるんだし、「Don't trust over 30」とか言ってたってあっという間に30なんてなるし、俺なんて40とかになるんだ。
いいじゃねえかその人らしくエイジングしてけばさ。まあできる限り体力や性欲は維持していきたいと思うけどね。そのために努力はするけども。
いやyoutube上げたかったの。Caravanの「Beautiful Losers」。
「牙をなくしたオオカミよ夜を抱いて走っていけ 声をなくしたカナリアよ風を集めて舞いあがれ」
もうダメだ。と思ってもまだこんなところに活路はあるんだぜ、という優しくてちょっとイタズラっぽいCaravanの視線を感じる歌で最近とても好きです。
と、言いながらほとんど観ていないのですが。
なに観たかなあ。真央ちゃんのフリーは観たなあ。仕事中だったけど。
演技後キムヨナに負けたのが分かったのかちょっとミスがあったからか、すっごい憮然とした表情が印象的でした。
むかしスキーのジャンプで失敗して「いや~やっちゃいました~」みたいな感じで、よく覚えていないけど批判を浴びていた選手がいたような。
俺なんか勝とうが負けようがその人が精いっぱいやった結果で、その結果はその人のものじゃないかと思うのですが、オリンピックとなるとナショナリズム的な高揚もあるので、今回の国母選手じゃないけど、やたら騒がれて大変ですね。
なんだか格差社会だとかさ、勝ち組とか、非モテとか、イケメンとか、リア充とか、女子力を上げる、とか物事を二分化してさ、こっちに入ればはい一丁上がり!もうオッケーみたいな風潮を感じてしまうのだけれど。
そんな訳ねえんだよ。「祇園精舎の鐘の声盛者必衰のことわりをあらわす」だよ。「ひとえに風の前の塵に同じ」だよ。アンチエイジングとか言ってさ、やたら年取るのを怖がっていたって年はやっぱとるんだし、「Don't trust over 30」とか言ってたってあっという間に30なんてなるし、俺なんて40とかになるんだ。
いいじゃねえかその人らしくエイジングしてけばさ。まあできる限り体力や性欲は維持していきたいと思うけどね。そのために努力はするけども。
いやyoutube上げたかったの。Caravanの「Beautiful Losers」。
「牙をなくしたオオカミよ夜を抱いて走っていけ 声をなくしたカナリアよ風を集めて舞いあがれ」
もうダメだ。と思ってもまだこんなところに活路はあるんだぜ、という優しくてちょっとイタズラっぽいCaravanの視線を感じる歌で最近とても好きです。
2010年2月13日土曜日
詩のことば
自分は謎だ。生も謎だ。人を愛する?宇宙の成り立ち?もちろん歯が立つわけもなく、立ちはだかる謎の前になす術すら持たず、足を引きずりながらお家に帰るしかないのだ。
だが太刀打ちするためにいくつかの方法がないわけではない。ある者は絵筆を手にする。立ちはだかる謎を自らのイメージに落とし込み、線を引き形にし、思うがままに好きな色を塗る。
楽器を扱えれば、謎を目の前にした自分の驚きや喜びや憤りを弦のうねりが発する音に、身体が欲するヴァイブレーションを楽器の中のスペースに反響させ、あるいは電気的に増幅させ、世界にフィードバックすることが出来る。
我々はいつからか言葉を聴き取り、覚え、自らがその言葉を用い、自分の欲する所を、喜びとする所を、悲しみとする所を様々な調子と様々な表現で人に伝えることをおぼえる。
我々は一般的に言えば言葉を扱える者が大多数である。そのような世界では「言葉」は軽んじられる。「言葉」は飾れるから、「言葉」は器用に操作できるから。「言葉」がなんら本質を指し示さないそんな世界にいまや我々は住んでいる気さえする。
そんな世界で、「詩人」は言葉でなく言葉と言葉の間に横たわる余白で、語ることでなく語らぬことで、謎を解き明かすことでなく謎を解き明かすことの「不可能性」を自らの身体をすら投げ出すギャンブルを行うことで、生や愛や宇宙の「謎」に対峙する意思を証明するのかも知れない。
詩人の言葉は言葉では無いのであろう。「言葉」がただ「言葉」であったらそれは詩ではないのだ。詩人の言葉は手段ではない。詩人が内に秘めた感情は明らかにされることは無い。
正しさよりは色彩を、整合性よりはリズムを詩人は重要視する。理論では、知識では、正義では、いつまで経っても「あっち」には行けないことを知っているから。
偶然と必然のあわいで紡ぎだされる言葉達。そのいくつかのセンテンス、両手に足りないほどの単語の組み合わせで、宇宙の謎すら解ける可能性は決してゼロではないのだ。詩人はその時を待つ。言葉を語るのではなく言葉が自ら語りだすその時を。
2010年1月30日土曜日
おおきな物語
子供の時によくある夢想に「実は自分は拾われた子でどこかにもっと優しくて美しい両親がいる」というのがある。
かくいう僕もそんなことを思っていた時期がある。「僕のように優しくて美しい少年があんな酔っぱらいのオヤジの血を引いてるわけがない。ほんとの子供だったらママももっと優しくしてくれるはずだ。」とか。
今となっては自分はやっぱり父親に似ているし、母親も精いっぱい自分を大事にしていてくれたのは分かるのだが。しかし。
子供のそんな夢想を笑えるか?笑えないなあ、って思う。
子供の夢想が自分がなんとか世の中で折り合っていくためにつくり出したファンタジーなのであれば、僕だって未だにファンタジーをつくり出してこの世の中を生きている、のだと思う。
「一寸先は闇」っていうのは本当のことだ。昨日も生きて、今も生きているが、明日生きているかどうか?なんて定かではない。
生きている、と、生きていない、の二者択一ならば50:50なのだから、明日も生きている確率は50%なのかも知れない。(これは数字のトリックなのかも知れないが)
なんとなあく、「頑張れば報われる」とか「俺にはイヤなことは起こらない」とか「痩せたらモテる」とか思っているが、「頑張っても報われない」ケースなんていっぱいあるだろうし、俺に「イヤなこと」が起こる可能性だって山ほどあるだろうし、痩せたってモテやしないだろう。
なんか宗教を信じている人を「そういう人」たち扱いすることがあるが、そういうのもどうかと思う。ある宗教の体系があって、その宗教内ではみんなで共通に「こうなのだ」という認識をしている事柄があって、っていうことで考えるとそれは「宗教」という物語を生きているだけであってさ、我々が基づいている色んな「物語」と筋立ては違うが、「物語」を信じているという点においてはおんなじなのだ。
「日本人」といえば僕らは「日本人」という人種はいると疑わないし、「日本人」の国民性みたいなものも日本人がよって立つ「常識」みたいなものもあるんだろう、と信じているのだが、そんな「日本人」だってさDNAレベルでいったら「モンゴル人」と大して変わらない(類人猿とだって90何%はかわらないのだ)んだから。
「日本人はこうあるべき」なんてその前提から崩れてしまう。
こんなことは他でだってよくあって、医学とかも内臓や体の中でどのように物質が働いて、どのように作用するか?とか西洋医学の範疇ではかなりくわしく解析しているのだろうが、その物質がどこでどのようにして作られているか?とかの随分基本的なことが分かっていなかったりしてびっくりすることがある。
マイナーコードの和音を聴くとなんで心が悲しくなるか?とかもまだきっと分かっていないはずだ。
これらのものはこれらの動きをするので、それをこのように利用するとこのように人間の役に立つ、とかは分かっていてもそれらのものがなぜそれらの動きをするのか?とかは分かっちゃいないのだ。
まあ宇宙の成り立ちからして、なんで宇宙なんてものがあって地球なんてものがあって人間なんてものがいるのかさっぱり分かんねえからな。
ブラックボックスがあって、そっから色んなものが出てはくるが、ブラックボックスはずっとブラックボックスのまんまだ。
だからそのブラックボックスに「神」とか「素粒子」とかあてはめてはみるのだが。人間の考えつくことなんて結局ドングリの背比べで、どれが正しい?なんてあんまり意味なくて。その時々で好きなものを、そのタイミングで価値があるものを、そのときの自分をhappyにしてくれる物語を自分の意志で選べば良いのだろう。
忘れてはいけないのは自分の選択と同時に誰かの選択も尊重すること。それはおかしい!こっちが正しい!なんてやってるから自分の信じてるものを貶めてまで戦争や争いごとになるのだろうから。
かくいう僕もそんなことを思っていた時期がある。「僕のように優しくて美しい少年があんな酔っぱらいのオヤジの血を引いてるわけがない。ほんとの子供だったらママももっと優しくしてくれるはずだ。」とか。
今となっては自分はやっぱり父親に似ているし、母親も精いっぱい自分を大事にしていてくれたのは分かるのだが。しかし。
子供のそんな夢想を笑えるか?笑えないなあ、って思う。
子供の夢想が自分がなんとか世の中で折り合っていくためにつくり出したファンタジーなのであれば、僕だって未だにファンタジーをつくり出してこの世の中を生きている、のだと思う。
「一寸先は闇」っていうのは本当のことだ。昨日も生きて、今も生きているが、明日生きているかどうか?なんて定かではない。
生きている、と、生きていない、の二者択一ならば50:50なのだから、明日も生きている確率は50%なのかも知れない。(これは数字のトリックなのかも知れないが)
なんとなあく、「頑張れば報われる」とか「俺にはイヤなことは起こらない」とか「痩せたらモテる」とか思っているが、「頑張っても報われない」ケースなんていっぱいあるだろうし、俺に「イヤなこと」が起こる可能性だって山ほどあるだろうし、痩せたってモテやしないだろう。
なんか宗教を信じている人を「そういう人」たち扱いすることがあるが、そういうのもどうかと思う。ある宗教の体系があって、その宗教内ではみんなで共通に「こうなのだ」という認識をしている事柄があって、っていうことで考えるとそれは「宗教」という物語を生きているだけであってさ、我々が基づいている色んな「物語」と筋立ては違うが、「物語」を信じているという点においてはおんなじなのだ。
「日本人」といえば僕らは「日本人」という人種はいると疑わないし、「日本人」の国民性みたいなものも日本人がよって立つ「常識」みたいなものもあるんだろう、と信じているのだが、そんな「日本人」だってさDNAレベルでいったら「モンゴル人」と大して変わらない(類人猿とだって90何%はかわらないのだ)んだから。
「日本人はこうあるべき」なんてその前提から崩れてしまう。
こんなことは他でだってよくあって、医学とかも内臓や体の中でどのように物質が働いて、どのように作用するか?とか西洋医学の範疇ではかなりくわしく解析しているのだろうが、その物質がどこでどのようにして作られているか?とかの随分基本的なことが分かっていなかったりしてびっくりすることがある。
マイナーコードの和音を聴くとなんで心が悲しくなるか?とかもまだきっと分かっていないはずだ。
これらのものはこれらの動きをするので、それをこのように利用するとこのように人間の役に立つ、とかは分かっていてもそれらのものがなぜそれらの動きをするのか?とかは分かっちゃいないのだ。
まあ宇宙の成り立ちからして、なんで宇宙なんてものがあって地球なんてものがあって人間なんてものがいるのかさっぱり分かんねえからな。
ブラックボックスがあって、そっから色んなものが出てはくるが、ブラックボックスはずっとブラックボックスのまんまだ。
だからそのブラックボックスに「神」とか「素粒子」とかあてはめてはみるのだが。人間の考えつくことなんて結局ドングリの背比べで、どれが正しい?なんてあんまり意味なくて。その時々で好きなものを、そのタイミングで価値があるものを、そのときの自分をhappyにしてくれる物語を自分の意志で選べば良いのだろう。
忘れてはいけないのは自分の選択と同時に誰かの選択も尊重すること。それはおかしい!こっちが正しい!なんてやってるから自分の信じてるものを貶めてまで戦争や争いごとになるのだろうから。
登録:
投稿 (Atom)

