自分は謎だ。生も謎だ。人を愛する?宇宙の成り立ち?もちろん歯が立つわけもなく、立ちはだかる謎の前になす術すら持たず、足を引きずりながらお家に帰るしかないのだ。
だが太刀打ちするためにいくつかの方法がないわけではない。ある者は絵筆を手にする。立ちはだかる謎を自らのイメージに落とし込み、線を引き形にし、思うがままに好きな色を塗る。
楽器を扱えれば、謎を目の前にした自分の驚きや喜びや憤りを弦のうねりが発する音に、身体が欲するヴァイブレーションを楽器の中のスペースに反響させ、あるいは電気的に増幅させ、世界にフィードバックすることが出来る。
我々はいつからか言葉を聴き取り、覚え、自らがその言葉を用い、自分の欲する所を、喜びとする所を、悲しみとする所を様々な調子と様々な表現で人に伝えることをおぼえる。
我々は一般的に言えば言葉を扱える者が大多数である。そのような世界では「言葉」は軽んじられる。「言葉」は飾れるから、「言葉」は器用に操作できるから。「言葉」がなんら本質を指し示さないそんな世界にいまや我々は住んでいる気さえする。
そんな世界で、「詩人」は言葉でなく言葉と言葉の間に横たわる余白で、語ることでなく語らぬことで、謎を解き明かすことでなく謎を解き明かすことの「不可能性」を自らの身体をすら投げ出すギャンブルを行うことで、生や愛や宇宙の「謎」に対峙する意思を証明するのかも知れない。
詩人の言葉は言葉では無いのであろう。「言葉」がただ「言葉」であったらそれは詩ではないのだ。詩人の言葉は手段ではない。詩人が内に秘めた感情は明らかにされることは無い。
正しさよりは色彩を、整合性よりはリズムを詩人は重要視する。理論では、知識では、正義では、いつまで経っても「あっち」には行けないことを知っているから。
偶然と必然のあわいで紡ぎだされる言葉達。そのいくつかのセンテンス、両手に足りないほどの単語の組み合わせで、宇宙の謎すら解ける可能性は決してゼロではないのだ。詩人はその時を待つ。言葉を語るのではなく言葉が自ら語りだすその時を。


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